『かげふみさん』試論

3日連続の小路啓之関連記事です!

かげふみさん 3 (バーズコミックス)

かげふみさん 3 (バーズコミックス)

前々回(http://d.hatena.ne.jp/ali-grigie/20090621)の記事と前回の記事(http://d.hatena.ne.jp/ali-grigie/20090622)は今回のための前座です。この記事だけでも読んでくれるとうれしいなぁ…♪(長々とすみません)


ぴえぴえパパとは誰か?小路啓之の伝えたかったこと

…を妄想した結果をこれから語ります。この話の導入部分は昨日の記事の最後のほうに書いてあるのでよかったら読んでみてください。
さて、ぴえぴえパパを検証するためには以下の2つの事柄に触れなければなりません。

キーワードは「対」

かげふみさん』の物語を横断する重要なテーマは「対」概念であると思います。小路ワールドは破天荒ながらも非常に緻密な物語構成をなしていることは前回の記事でお伝えしましたが、それは『かげふみさん』でも同様です。
「対」の構造は3巻でのがじゅ丸のセリフに見ることができます。それはメグとキリコをカメレオンの比喩を用いて対比している場面なのですが、この対比はもちろん物語の初期、具体的にはキリコが登場する頃からすでに小路の頭の中に存在していたといえるでしょう。もちろん、ぴえぴえパパにもそれは当てはまります。「誰かを救おう」とするメグと「誰も救えない」とするぴえぴえパパの間には明確な「対」が見て取れるでしょう。(そのほかにもたくさんあると思うんですが、いかんせんこの記事を書いている今現在『かげふみさん』を友達に貸してしまって2か月前の記憶を頼りに書いているので…)

もう一つは「父」

何度も言いますが、彼の作品には現実的な問題意識が隠されています。巧妙に隠ぺいされていますが、詳しく読めば見えてきます。
そもそも、ぴえぴえパパという名前に「パパ=父」が隠されていることを失念していました。この物語の要は「父」というワードなのです。
具体的にみていきましょう。まずぴえぴえパパの誕生に深くかかわっている、キリコの場合です。彼女は母親と2人暮らしですが、孤独なためにお菓子を入れておく筒(のようなもの)と会話をし始めます。これがぴえぴえパパです。このあたりの説明はマンガの中ではほとんどされていないのですが、僕の考えだとこれは「失われた父」への憧れを現実へと投射したものだと思います。エディプス・コンプレックス的な「父親」の補償と捉えることも可能だと思います。


つぎに主に2巻で活躍する花の子ルソルソを思い出してください。彼女は自分で、自分の父親をターゲットに暗殺の依頼を「カイザーセゾ」にします。しかし、ルソルソはカイザーセゾが録音した、殺した相手の(つまりルソルソの父の)最期の言葉を聞きたいがためにカイザーセゾを見つけ出します。ところがここで衝撃の事実が判明するんですよね。セゾこそが彼女の本当の父だったと。冷酷にも彼女は父に殺されてしまいます。この話はまさにエディプス・コンプレックス的悲劇として素晴らしいものがあるんですが、少し詳しく検証するとここでも「失われた父親」への反抗と思慕が見られます。


このことは現代的問題とも非常に密接な関係があることは言うまでもありません。「男性性」の崩壊、「父権的なるもの」の失墜。これらは1945年の敗戦という政治的「去勢」に端を発している等々の議論は最近でもよく見かけます。

ぴえぴえパパとは…

以上の2つの事柄から、ぴえぴえパパという人物への僕なりの核心に迫っていきたいと思います。
まず、彼は人間ではないということを言いたい。彼が実際問題として人間であったとすると多くの矛盾が生じるからです。かげふみ属性と(通俗的な意味での)ゴーストとの類似ということもありますが、なにより3巻冒頭のぴえぴえパパ誕生のシーンからしても、彼を実存する人物だとするのは無理があるからです。
そこで僕はぴえぴえパパを「もう一人のめぐみのメグ」だと仮定したい。それには理由があって、なぜ彼ががじゅ丸を殺そうとしたのかという問いへの答えにもなります。つまりめぐみのメグは物語の初期からがじゅ丸のことを愛していたのですが、それはまだ無意識下のことで本人も気づきはしなかったのです。ところが、強迫性障害の彼女は、ある時から自己が分裂し、その分裂したかたわれがぴえぴえパパだという説です。好きであるのに殺したいほど憎い、というアンビヴァレントな状態*1の「殺したい」という面が独り歩きした結果がぴえぴえであると考えます。もちろんファンタジーなので、完全にメグから独立した存在として描かれています。それを象徴するのが1巻の最後のぴえぴえパパの「死」なのです。メグのかたわれは、「死」さえも経験することができるのです。まぁこれは物語的におもしろくするための小路の仕掛けでしょう。*2


また、彼女のかげふみ能力は話の途中で、急に無くなってしまいます。このときのメグは自分から「何かをしたい」という強い意志を感じさせます。彼女はその意思でもってアンビヴァレントな状態をその時克服したのではないでしょうか。すなわち、かたわれのぴえぴえパパの存在は、彼女が分裂的である時、主体的に生きる意志を失った時に初めて登場するわけで、そうでなくなった時に、ぴえぴえパパの消失と同時に彼女の能力である「かげふみ属性」も消えるのでしょう。もちろん彼女はそのようなことは意識していませんから戸惑い、弱気になっていきます。最終話にでてくる黒ぴえぴえパパは、彼女ががじゅ丸を助けることができないと弱気になった時に登場します。彼は姿は変わってもメグのかたわれであり、決別した過去の亡霊のままなのです。*3しかしメグの未来へと開かれた意思によって彼は作中に2度と出てくることはありません。メグは自身の力で、自己を超克したのです。


(さらに妄想をお許ししてもらえるのならば)なぜぴえぴえパパがキリコの「父」の姿となっているのかという問題ですが、僕はキリコとメグが血のつながった関係、同じ父親から生まれた姉妹であると推測しています。両者とも同じぴえぴえパパのビジョンを見ているし、そうでないと僕の論が崩壊するからですが(笑)あながち間違ってないような気がします。まぁこれは完全に妄想ですが。

「父」への抵抗、その挫折と成功

ただこの妄想、つまりぴえぴえパパはメグの「父的(なるもの)」存在であると同時に、彼女のアンビヴァレントなかたわれである、ということを敷衍して作品全体を俯瞰すると、おもしろいことが見えてきます。
ルソルソは「父」への憎しみと愛情が混然となり(アンビヴァレントのまま)「父」に殺されてしまいます。ここでは「父」は絶対的なものとして君臨しています。
ところがメグは「父的」なぴえぴえパパのテーゼ「誰も救うことはできない」とアンビヴァレントな状態を克服して、がじゅ丸を助けだします。ここではメグは「父的」なるものへの抵抗を成功させることができたのです。
「対」の構造でこの物語を読み解くならば、この二重構造、つまり「父への抵抗に挫折」したルソルソと「成功した」メグという対比もあながち間違ってはいないのかもしれません。

結論

かげふみさん』は確固たる「対」概念を作中にちりばめており、そうした要素を解きほぐしていくと、ぴえぴえパパとはメグの「父的」な存在であると同時に「アンビヴァレントなかたわれ」であり、この両者を自身の意思で乗り越えるめぐみのメグの人間としての成長に小路啓之のメッセージが込められているのではないでしょうか。

おまけ 『かげふみさん』の終わり方について

21日付の記事で、僕は小路啓之の物語のとじ方について語りましたが、『かげふみさん』は別格ですね。「なんだ、これは。ハリウッド的超ハッピーエンドすぎる…」と度肝を抜かれました。彼の終わらせ方にしては珍しいな、と思ったんですけど、僕はこれはある種のアイロニーだと思います(また妄想が始まった!)
久々の長編連載でうきうきしていた小路啓之が、俗世の諸問題により(前回の記事参照)物語を途中で終わらせなければならなくなり、半ばやけくそになって「完全なキッチュのまま終わらせてよるよ!」としたのではないか、と。しかも内心、伏線未消化で全然ハッピーじゃないのに敢えて超ハッピーエンドで終わらせる…。まさにニヒル!シニカル!アイロニカル!!(これが言いたいだけっすw)


長々とお読みくださってありがとうございました。ずいぶん妄想を書き連ねたのでお読みになった方は「ふざけんじゃねー」とか「妄想キメェw」などあると思います。なにかありましたらお気軽にコメント欄かメールにてお伝えください。
本当に感謝します。それでは。

*1:エディプス・コンプレックスもアンビヴァレントも元は精神分析用語だが、彼の作品中にも「身体表現性障害」という語がでてくる以上、突飛な話ではないだろう。もちろん、このアンビヴァレントも一種の「対」概念である

*2:しかし、完全に独立した「かたわれ」であっても元はメグなのですから、メグが無意識化で「死」を望んでいたという仮説も考えられると思います。

*3:一度は決別したから黒いのか、それとも一度消失したから黒いのかは謎