『来世であいましょう』3巻

このブログをかなり放置していましたが、心の拠り所である小路啓之先生の新刊発売の時だけは更新しますよ!

来世であいましょう 3 (バーズコミックス)

来世であいましょう 3 (バーズコミックス)

黄色が目印3巻もおもしろかったですね。しかも3月4日にはスージャンで連載中の『ごっこ』も発売ですから、小路フリークとしてはうれしいかぎり。

小路作品は人が死んでなんぼです

2巻までは現世体と来世体のあいだでしっちゃかめっちゃかのドダバタ恋愛劇を繰り広げていたわけですが、3巻ではようやく主人公ナウくんが死にそうになってきます。小路作品のキャラクターって毎回変なやつばっかりですが、彼らは追い詰められると「本音」を言い始めて急速に物語のクライマックスへとつっこんでいく、というのが一つのルールになっていて、今回も新登場「音霧キリコ」が自分を追い込んで周りを巻き込んでいくことによって物語に勢いがでてきましたよね。それまでは正直、どこに向かって話が進んでいくのか今ひとつわからなかったのですが。

音霧キリコ

これが良かったです。『来世であいましょう』に漂う雰囲気を「非モテ」「ドーテー感」とかって表すのもいいんですけど、もっと掘り下げて「足下グラグラ感」「果てしないメタ認知地獄の苦悩」とかっていってもいいと思うんですよ。
雨の日に自転車こいでいたら、おもいっきり転んで膝から血がでていて痛くてしょうがないんだけれども、まずは周囲に見てる人がいるかどうかを確認してしまう、そういう近代の自我を巡る悲しさみたいな……ね。

音霧キリコは今までたくさんの男とつきあっては別れを繰り返してきた人です。今までの男のボタンを1個ずつ持っていて、このボタンはあの男の〜と説明するのです。その説明の仕方がヒョウヒョウとしていて、「アンタはこれを遊びの数だと見るだろうけど全部本気の数だからね!」と豪語する。これは単なる強気とかではなく「キャラ」をつくっていると思います。小路作品の登場人物は、全員キャラをつくっている。そして物語後半でそのキャラを演じることが困難になって(あるいは疲れてしまって)「素の自分」に戻るのです。今回はキリコが最後でナウと抱き合って「アタイも泣いていいか?」といって泣き始めます。この時のキリコはキャラをつくっていない「素の自分」状態です。『かげふみさん』でもそうでしたが、自分の死、他人の死(の危機)をきっかけにして「キャラ」状態から「素の自分」へと戻っていける、というか死を眼前にしないと「素の自分」には戻れないような感じです。


現代を生きている人なら多かれ少なかれ、キャラを場面ごとに演じ分けて、多重人格のようになったり、あるいはゲーム的リアリズムじゃないですけど、まるでロールプレイングのように自分を演じたりしているのではないでしょうか。こうなると本当の自分ってなによ?みたいな不安感が噴出しますが、小路先生はマンガのキャラクターにキャラを演じさせることで現代人の不安をキャッチーに描いているのではないか、とか気持ち悪いこと考えたんですよね。すみません。

現世体と来世体


登場人物のキテレツな性格も実は演じられていたもので、「素の自分」は見つけられないまま。しかもこの作品では「来世体」まで登場して、ますます本当の自分なんかどこにいるのかわからない。3巻では<キャラー素の自分>の葛藤ではなくて<現世体ー来世体>の苦悩も描かれていてとてもおもしろかったです。ナウくん(この名前が「オレは現世体なんだ!」と主張しています)の涙が心にしみます。

まとめ

3巻の巻末では、なぜ傑作『かげふみさん』が書店においてないのか、そういった裏情報をかげふみさんが説明してくれる書き下ろしおまけマンガも収録。さらにcomic zinではイラストペーパーも特典でついてくるぞ!

肝心の内容については、キノくんがもう少し悪役になるかなと思っていたら一番まともな、ドラゴンボールでいうクリリン役っていうか解説係みたいな感じになっててこれからどうなるのかな、という不安。あとはキリコと爆発するのはいいんだけれど、そうなるとせっかくの「来世体」設定がうまく活かせないんじゃないのかなーっていう不安はありますが、来月の『ごっこ』といい小路先生から目が離せないですね!
3巻のベストショット

喪服キノくんかわいすぎる……