このカテゴリーでは、どうしようもない独り言や妄想を書き連ねるので、不快なにおいがプンプンするよ!!


この前のブルータスの特集は「せつない気持ち」でおもしろかったですね。「せつない」感情には悲しさのほかに、その悲しさに自分で酔っている優越感のようなものが混ざっているのではないか、という発想は興味深かったです。巻頭の茂木健一郎内田樹の主張も納得。


また、「せつない歌」として速水健朗さんが西野カナ加藤ミリヤという二人の女性歌手と浜崎あゆみを比較していて、浜崎あゆみのせつなさは抽象的だったのに対して、西野と加藤は具体的せつなさを歌うことで現在の寵児たり得るというのです。ボクは3人ともちゃんと聞いたことがないけれど、速水さんの主張は納得できます。
浜崎あゆみは、とにかくせつないんですって。過ぎ去った過去にはもうもどれないわ〜せつないよ〜って感じです。別に過去になにがあったとか言わないのです。それに比べて西野カナ加藤ミリヤはどこまでも具体的。電話してんのにでないってことは他の女と電話してるからでしょ!どうせ私は本当に愛されてないんじゃね?マヂせつないわ〜みたいな。


そもそも「うれしい」と「悲しい」だと伝わる広さや速さは明らかに「悲しい」方だと思うのです。悲しいという概念はすそ野が広いというか。
つまり、なんとなく悲しいっていう場面は日常に普通に存在しますよね。失恋して悲しいも、ビデオ予約失敗して悲しいも、全部悲しい概念の幅広いカテゴリー領域に吸収されてしまうのです。浜崎あゆみが、過去には戻れないっていっても、聞く人が個別具体的な自分たちの過去を、歌詞に代入すればよかったんです。


ところがうれしい感情というのは、そもそもが具体的ケースと密接に関連しないと起動しないような気がするのです。なんとなくうれしい、っていう場面はなくはないですけれど、なかなか相手に伝わらないですよね……。わたし、今なんかうれしい!!って言われたら「キャベツの芯でも食べすぎてリーガルトリップしてんじゃね?」とか思っちゃいます。彼氏と一緒にデートしてうれしい。キルフェボンうまくてうれしい。というように「うれしい」は「〜して」が前につかないとうまく伝えられないのではないでしょうか。


悲しいという応用のきく、メタレベルが高い(というか広い)感情を歌い上げるのにも、具体的な出来事を織り込まないといけなくなったことは、「共感」能力の低下が原因なのでしょうか? そんなことはないと思いますが、どの世代、時代にも抽象的な要素に理解を解せない人がいるのは実感として感じるところです。


さて、このブログの更新頻度が残念なことになってますが、それも「共感」の問題なんですよ。
考えてることとか感情を伝えるっていう作業には常に抽象化が伴うわけで、そこで当たり前ですが捨象が起きるし、さらに受け取り側との齟齬発生の可能性がつきまといます。どうやって相手に自分の気持ちを伝えるかという、コミュニケーションの根本的な部分で、まさかこの歳で悩むとは思いませんでした……。はやく大人になりたいです。すみません、たまには愚痴言ってもいいですよね。それでもボクは、人との共感を断念しません。槇原敬之がテレビで「好きなことは好きと いえる気持ち 大事にしたい」って歌ってたんですよ。BL好きなんで(あんまり読んでないけど)ゲイカップルの気持ちになってこの歌詞聴くと、なんか涙でてきちゃって。いいんだよ、好きなものは好きでさ!


なんだ、この結論。これからも月一程度で更新しますね。