『来世であいましょう』3巻
このブログをかなり放置していましたが、心の拠り所である小路啓之先生の新刊発売の時だけは更新しますよ!

- 作者: 小路啓之
- 出版社/メーカー: 幻冬舎コミックス
- 発売日: 2011/02/24
- メディア: コミック
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小路作品は人が死んでなんぼです
2巻までは現世体と来世体のあいだでしっちゃかめっちゃかのドダバタ恋愛劇を繰り広げていたわけですが、3巻ではようやく主人公ナウくんが死にそうになってきます。小路作品のキャラクターって毎回変なやつばっかりですが、彼らは追い詰められると「本音」を言い始めて急速に物語のクライマックスへとつっこんでいく、というのが一つのルールになっていて、今回も新登場「音霧キリコ」が自分を追い込んで周りを巻き込んでいくことによって物語に勢いがでてきましたよね。それまでは正直、どこに向かって話が進んでいくのか今ひとつわからなかったのですが。
音霧キリコ
これが良かったです。『来世であいましょう』に漂う雰囲気を「非モテ」「ドーテー感」とかって表すのもいいんですけど、もっと掘り下げて「足下グラグラ感」「果てしないメタ認知地獄の苦悩」とかっていってもいいと思うんですよ。
雨の日に自転車こいでいたら、おもいっきり転んで膝から血がでていて痛くてしょうがないんだけれども、まずは周囲に見てる人がいるかどうかを確認してしまう、そういう近代の自我を巡る悲しさみたいな……ね。
音霧キリコは今までたくさんの男とつきあっては別れを繰り返してきた人です。今までの男のボタンを1個ずつ持っていて、このボタンはあの男の〜と説明するのです。その説明の仕方がヒョウヒョウとしていて、「アンタはこれを遊びの数だと見るだろうけど全部本気の数だからね!」と豪語する。これは単なる強気とかではなく「キャラ」をつくっていると思います。小路作品の登場人物は、全員キャラをつくっている。そして物語後半でそのキャラを演じることが困難になって(あるいは疲れてしまって)「素の自分」に戻るのです。今回はキリコが最後でナウと抱き合って「アタイも泣いていいか?」といって泣き始めます。この時のキリコはキャラをつくっていない「素の自分」状態です。『かげふみさん』でもそうでしたが、自分の死、他人の死(の危機)をきっかけにして「キャラ」状態から「素の自分」へと戻っていける、というか死を眼前にしないと「素の自分」には戻れないような感じです。
現代を生きている人なら多かれ少なかれ、キャラを場面ごとに演じ分けて、多重人格のようになったり、あるいはゲーム的リアリズムじゃないですけど、まるでロールプレイングのように自分を演じたりしているのではないでしょうか。こうなると本当の自分ってなによ?みたいな不安感が噴出しますが、小路先生はマンガのキャラクターにキャラを演じさせることで現代人の不安をキャッチーに描いているのではないか、とか気持ち悪いこと考えたんですよね。すみません。
現世体と来世体
登場人物のキテレツな性格も実は演じられていたもので、「素の自分」は見つけられないまま。しかもこの作品では「来世体」まで登場して、ますます本当の自分なんかどこにいるのかわからない。3巻では<キャラー素の自分>の葛藤ではなくて<現世体ー来世体>の苦悩も描かれていてとてもおもしろかったです。ナウくん(この名前が「オレは現世体なんだ!」と主張しています)の涙が心にしみます。
まとめ
3巻の巻末では、なぜ傑作『かげふみさん』が書店においてないのか、そういった裏情報をかげふみさんが説明してくれる書き下ろしおまけマンガも収録。さらにcomic zinではイラストペーパーも特典でついてくるぞ!
肝心の内容については、キノくんがもう少し悪役になるかなと思っていたら一番まともな、ドラゴンボールでいうクリリン役っていうか解説係みたいな感じになっててこれからどうなるのかな、という不安。あとはキリコと爆発するのはいいんだけれど、そうなるとせっかくの「来世体」設定がうまく活かせないんじゃないのかなーっていう不安はありますが、来月の『ごっこ』といい小路先生から目が離せないですね!
3巻のベストショット
喪服キノくんかわいすぎる……
映画「ノルウェイの森」を観に行ったよ!
初日に映画観に行くのは生まれて初めての経験です。そんなに期待してなかったけど、地元の映画館はガラガラで拍子抜けしました。
ところで皆さんの中には、とても「文学的な」ものが好きだという人がいらっしゃると思うのですが、駄作と文学的作品の線引きってかなり難しいですよね。「ノルウェイの森」も評価するのは難しいですよね、とりあえず様子見としましょう。
そんなことより、オレの座席の前に幼女がいたんですよ!家族連れでパパン・ママン・幼女なんです。幼女っていっても9歳くらいですが、さすがに「ノルウェイの森」見せるのはどうなのかな?濡れ場っていうかエロスシーンのたびに、家族で金曜ロードショー見てる最中にセクシーシーンに突入したときの、あのなんともいえない空気を思い出して、映画に集中できなかったぞ!笑 あと隣にカップルがいたのもゲンナリでした。
村上春樹の作中人物は、現実感に欠けるところがありますよね。だからスクリーン上で松山ケンイチとかが登場しても、それが自分の頭の中のワタナベくん像とマッチできなくて違和感が残りました。でも全体的にはよく出来た映画なんじゃないかなーと思いましたが、いかんせん映画を全然観てないので映画音痴というか、価値判断の基準が曖昧なので感覚的な感想しかかけないんですけれどね。
帰りに楽器屋でスコア半額セールをやってて、読めもしないのにベートーベンのシンフォニーのスコアを買ったりしました。最近、自分の中でクラシックブーム再燃しそうなんですよ。とりあえずマーラーあたりから探っていきたいです。
わかりますかね?やらないといけないことから目を背けるかのように、なにか他のことに没頭したくなる気持ちって。永沢さんがいいこと言ってました。「自分に同情するな。自分に同情するのは下劣な人間のやることだ。」映画でも言ってましたが、昔読んだ本を見返したら、きちんとそのセリフにマークがしてありました。成長してないな、自分。
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このカテゴリーでは、どうしようもない独り言や妄想を書き連ねるので、不快なにおいがプンプンするよ!!
この前のブルータスの特集は「せつない気持ち」でおもしろかったですね。「せつない」感情には悲しさのほかに、その悲しさに自分で酔っている優越感のようなものが混ざっているのではないか、という発想は興味深かったです。巻頭の茂木健一郎や内田樹の主張も納得。
また、「せつない歌」として速水健朗さんが西野カナと加藤ミリヤという二人の女性歌手と浜崎あゆみを比較していて、浜崎あゆみのせつなさは抽象的だったのに対して、西野と加藤は具体的せつなさを歌うことで現在の寵児たり得るというのです。ボクは3人ともちゃんと聞いたことがないけれど、速水さんの主張は納得できます。
浜崎あゆみは、とにかくせつないんですって。過ぎ去った過去にはもうもどれないわ〜せつないよ〜って感じです。別に過去になにがあったとか言わないのです。それに比べて西野カナ、加藤ミリヤはどこまでも具体的。電話してんのにでないってことは他の女と電話してるからでしょ!どうせ私は本当に愛されてないんじゃね?マヂせつないわ〜みたいな。
そもそも「うれしい」と「悲しい」だと伝わる広さや速さは明らかに「悲しい」方だと思うのです。悲しいという概念はすそ野が広いというか。
つまり、なんとなく悲しいっていう場面は日常に普通に存在しますよね。失恋して悲しいも、ビデオ予約失敗して悲しいも、全部悲しい概念の幅広いカテゴリー領域に吸収されてしまうのです。浜崎あゆみが、過去には戻れないっていっても、聞く人が個別具体的な自分たちの過去を、歌詞に代入すればよかったんです。
ところがうれしい感情というのは、そもそもが具体的ケースと密接に関連しないと起動しないような気がするのです。なんとなくうれしい、っていう場面はなくはないですけれど、なかなか相手に伝わらないですよね……。わたし、今なんかうれしい!!って言われたら「キャベツの芯でも食べすぎてリーガルトリップしてんじゃね?」とか思っちゃいます。彼氏と一緒にデートしてうれしい。キルフェボンうまくてうれしい。というように「うれしい」は「〜して」が前につかないとうまく伝えられないのではないでしょうか。
悲しいという応用のきく、メタレベルが高い(というか広い)感情を歌い上げるのにも、具体的な出来事を織り込まないといけなくなったことは、「共感」能力の低下が原因なのでしょうか? そんなことはないと思いますが、どの世代、時代にも抽象的な要素に理解を解せない人がいるのは実感として感じるところです。
さて、このブログの更新頻度が残念なことになってますが、それも「共感」の問題なんですよ。
考えてることとか感情を伝えるっていう作業には常に抽象化が伴うわけで、そこで当たり前ですが捨象が起きるし、さらに受け取り側との齟齬発生の可能性がつきまといます。どうやって相手に自分の気持ちを伝えるかという、コミュニケーションの根本的な部分で、まさかこの歳で悩むとは思いませんでした……。はやく大人になりたいです。すみません、たまには愚痴言ってもいいですよね。それでもボクは、人との共感を断念しません。槇原敬之がテレビで「好きなことは好きと いえる気持ち 大事にしたい」って歌ってたんですよ。BL好きなんで(あんまり読んでないけど)ゲイカップルの気持ちになってこの歌詞聴くと、なんか涙でてきちゃって。いいんだよ、好きなものは好きでさ!
なんだ、この結論。これからも月一程度で更新しますね。
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今回のハートキャッチプリキュアは定番の「己との戦い」編だったけれども、なかなかおもしろかったよね!
ブロッサム以外は己との戦いに勝つことができたけど、勝利=克己というよりもアウフヘーベン(aufheben 維持しつつ乗り越える)的解決が印象的でした。
たとえばサンシャインは、過去の自分、すなわち「人形や洋服など可愛いものが大好きなのに武道の家に生まれ、家を継ぐために、お兄様を守るために(自分を偽って)可愛いものを好きと言えない自分」という「影」と戦うことになるわけです。ところが、この「影の自分」はすでに乗り越えたものとして了解されていたはずです。それが証拠に(ここは演出が上手かったところですが)今回の最初の方でいつきが「可愛いものを可愛いと素直にいえる」ことが周囲から賞賛されていました。
つまり、影の自分=過去の自分はすでに乗り越えたものとして織り込みずみだったのです。
にもかかわらず、もう一人の影の自分と、いつき/サンシャインが今回なぜ戦わなければならないのか。
(サンシャイン)
確かにかつてはそうだった!……でも今は違う!武道が好きだからやっている!……自分の好きなものは素直に好きといえるようになった!!
(影のサンシャイン)
じゃあ、頑張ってきた私は、もういらないの!?
あるいはマリンのセリフ
(マリン)
つまり影の自分って昔の私のわけね
(影のマリン)
今でもそう思ってるでしょ!!
かつての自分を清算したと思っていたいつきですが、そうではなかったのです。自分の中には、やはり過去の自分、積み上げてきた自分がいるのです。人は過去と断絶して未来に進むことはできない。弱い自分=影の自分だと思いこんでいたサンシャインは「頑張ってきた私は、もういらないの!?」というセリフに戸惑います。
しかしサンシャインは気づくのです。そして攻撃態勢を解除して静かに言います。
(サンシャイン)
お兄様は太陽の光を浴びるようにすべてを……あなたは敵ではないから……
だから私はすべてを受け入れたい。
過去を切り捨てるのではなく、すべてを受け入れる。それは弱さや悲しみをも受け入れるという辛い選択なのです。しかしそうすることで、いや、そうすることでしか未来に進むことはできないのです。自分の中にある「弱さ」を見つめる(内的自省)からこそ、心の花が枯れデザトリアン化した人々を救うことができる。「弱さ」をしってい
るからこそ救うことができる。
ここにハートキャッチプリキュアの良さが現れてると思うのです。
プリキュアはそもそも超越した存在です。人智の力を超えて、敵を打ち砕くのです。しかし、今シリーズの基本的な展開構造は「弱み→デザトリアン化→プリキュアによる共感→救済」です。弱さに共感することで救いをもたらすことができる。そういった意味ではハートキャッチプリキュアは超越とは無縁のプリキュアなのです。あえていうなら「弱い」からこそ「強い」のです。
ですから今回は、プリキュアたちのキャラクター造形に一段と内面性を獲得させるためのストーリーであると同時に、弱さに共感することを、自分を通して再認識する儀式だったのです!
そして儀式にはチェンジが伴うのです!!
そう、ハートキャッチプリキュアスーパーシルエット!!(ウェデングドレス!)
かわいい!!あぁぁ来週も必ず見るよー!!
これからの展望〜未来へ〜
いっけね!辛気くさくなっちゃった。ようし頑張るぞ!
これ書こう書こうっていって放置していたんですが、でも書いてて楽しかったです。これはちょっとした時間に自分で見て、ニヤニヤするように書いたんです本当は。わざわざ「女の子」ってカテゴリー作ったので、これからも心惹かれる女性がいたら頑張って書いていきたいです!
……まぁ、「女の子」じゃなくてもね、ふひひ、いいんですけどねwww
女の子遍歴史(二次元限定)
ねぇ、オマエってどんな女の子が好きなの?
「くしゃみするでしょ?はっくしょんって。その後でうわぁ〜って親父くさく言う人が好き」
「営業の外回りとかで、電車に乗ろうとしたら『ねぇ、一駅だけだから歩いていきましょうよ』っていう人が好き」
……などと意味不明な発言で皆様を困惑させてきたので今日は、具体的に、ボクの好きなキャラクターを列挙したいと思います!
(こういう言い方をすると「オマエ死ね」か「歩くのいいよね、健康にいいし」とかいう見当外れの答えが返ってくるので禁止!)
<目的>
今まで見てきたマンガ・アニメの中で、ボクが個人的に心惹かれた女の子たちを列挙し、なにに惹かれたのかを説明することで、これからのボクの女の子へのアプローチを考察する。
黎明期
「ドラえもん」とエロス
ボクは小さい時に、マンガといえばドラえもんしか買ってなかったくらいドラえもん大好きなんです。全巻もってます。
幼稚園ごろは親の都合で海外に行ってたため、日本語のテレビとは隔絶した生活を送っていましたが、日本から持ってきた録画ビデオにドラえもんが残っていたので、それを100回くらい見ていたそうです。そういったわけで原初的なエロスを感じ始めたのはドラえもんによるところが大きいわけです。
たとえば「のび太の魔界大冒険」(1984)にでてくる「満月美夜子」がすばらしいのです。この女の子は普段は魔法によって猫になっているのですが、月の光を浴びた時にだけ、人間の女の子に戻れるのです。ここで重要なことは、まず「猫の姿の時は言葉を話せない」ことです。なにか言いたいのに言えないもどかしさ……ほん訳コンニャクで話せるようになってしまうのが残念ですね。もう一点は「変身する」ということです。変わっていく姿にどうしようもないエロスが漂っていると言ったのは、たしか手塚治虫だったけれども、この猫から人間に変身する(しかも月光で照らされて)姿もいいですが、幼いボクには「変身すること」そのものの方が重要だったのです。この映画を観てから、人間が動物に変身するシーンをよく想像していました。戦隊ものの変身ではなくて、あくまで動物に変身することを好んでいたようです。(変身ではないのですが、「魔女の宅急便」の黒猫キキも好きでした。)
ゾイド(無印)のリーゼ
ゾイド(無印)を放送していた頃が、ボクのエロス的なものの方向性を大きく決めていった時期です。
このゾイド、アニメとしてもよくできていて、おもしろい作品なんですが、リーゼって女の子が出てくるんですけどその子に心底惹かれていました。
リーゼは前半では本当に男か女かわからないんですよ。一人称「ボク」だしね。当時の級友と「リーゼが女の子かどうか」で熱く議論していた思い出があります。ところがヒルツって奴に裏切られてから、妙に女の子らしくなるんですよ!それは着ているスーツのせいかもしれないけど、胸を見れば一目瞭然なんですよね。
前半……あれ?もしかして男…??(最初の4分ほどです。あんまりいい動画なかった…)
後半……なんか胸大きくね?ってか作画良くね?
それで、この頃から明確に「男っぽい女の子」が大好きになっていくのでした。好きというか惹きつけられる感じです。
つまり恋愛関係を望んではいない、「崇拝」に似た感情ですけど…わかってくれますかね?
たとえば部活(吹奏楽)とかで命令系統の上部にいる女性とかにすすんで「服従」するような……。
「崇拝」とか「服従」とかいうのが、これ以後のキーワードになってきます。マゾヒズム的というわけではないのですが、なにかに自分の全存在を捧げることで自己同一性を保っていくような……そういうリビドーの流れというか。オタクの「萌え」に近い感情だと思います。カンタンにいうと。
青春期
ボクの青春期(中学・高校)というのは一言でいえば「二次元からの断絶」でした。リアル世界が忙しかったのと、家にネット環境がなかなか整わなかったのが原因です。だから2000年代前半のマンガ・アニメに関しては後からつまみ食いする程度だったので、いまでもよくわかりません。それまでの二次元ライフはごくごく普通で、エヴァも見てないしオタク的なものにも触れていなかったのです。
そんなボクが道を踏み誤ることになるのが、「ハルヒブーム」でした。youtubeなるものから深夜アニメという深淵な闇へと吸い込まれたボクは、あまたある変態的倒錯的ワールドを闊歩していきました……。
水銀燈
しかし、熱狂的に心惹かれたキャラクターになると数は限定されます。オタク初期のころにはご多分にもれず水銀燈が大好きでした。これも一種の「崇拝」熱です。水銀燈の場合は、心に隠し持っている暗さがステキですよね。ダークな女性も好みなのです。
(コメ消し推奨。ところでこの動画、一番最初ビックリしません?超ビビるんですけどぉ)

Rozen Maiden 新装版 1 (ヤングジャンプコミックス)
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- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2008/04/25
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没落期
高校3年から今に至るまでを没落期とすると、この期間は本当にやりたい放題だったなぁと。いろいろな素敵な女性(二次元)と出会いました……。
機動戦士Zガンダム ハマーン・カーン
(ファンネル初の実践投入 もう宇宙戦争じゃなくて「オーラ・バトル」になってます)
ハマーン様!!これは典型的な「崇拝」型です。もう跪きたい。ハマーン様に依存したい……。最後の知的な笑顔といい、実際には戦闘には参加しない賢さといい、すてき!!あとキュベレイ(丸っこいロボット)もその曲線が実にエロス的だ。というか、この声優さんが大好きなんですよ。榊原良子さん。ニュースステーションのあの人ですよ。
苺ましまろ 伸姉(伊藤伸恵)
(画像はフランスから買ってきたフランス語版苺ましまろ『Les petites fraises』の2巻 伸姉がフランス語話してるみたいでおもしろい)苺ましまろのすばらしい点はロリコンマンガであるのに伸姉がいるおかげで、言い訳がたつということですよね。つまり、「オレは伸姉が好きなんだよ!勘違いしないでよね!」と。でも実際に、伸姉は魅力的ですよね。ダウナーで、愛煙家。かっこいいわけではないけれど、クラスにいたら好意をいだくタイプ。こういう女性は、自分が周りから好かれていることをまったく関知しないor興味がない人だと思うけれど、それがいいというか……絶対に「所有」の対象になりえない点で「崇拝」に通じます。

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それでも町は廻っている 紺せんぱい
紺せんぱいもいいですよね。この人も伸姉に通じるところがあって「基本的に一人で生きていけそうな人」タイプです。自分の中に芯がきちんと一本通っています。あと、伸姉も紺せんぱいもどっちかっていうとボーイッシュのカテゴリーに近いですよね。あんまりフェミニンな女性はリアルでも苦手なので……。これも否「所有」型に分類されます。(つまり付き合いたいとかではない)

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コダマの谷 ウーナ(アーナスタース家)
この作品は、メインのあらすじが見えづらく、作画も安定しないので、読解にやや手こずりました。
そんな中であってもウーナ様の輝きはひときわ目立っていて、「男装して学園に侵入する」という常套手段と「王子と結婚する」というお決まりなパターンの組み合わせでも、やはり心惹かれるものがあります。というか、ボクはこの髪型が好きなんです。ボブみたいな、これくらいの……。表紙のウーナ様も必見!

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セクシーボイスアンドロボ 「初美」? 「ナギサ」?
黒田硫黄の傑作『セクシーボイスアンドロボ』1巻の第2話「女は海」に登場するキャラクター。
彼女の魅力は、黒田さんの天才的なセリフ選びのおかげです。このセリフのおかげで、このキャラクターはリアリティを獲得しているんですよ!
「水族館は何度もくるけどさ、もし私の水族館だったら裸で泳ぐな。会員制にして大増収。」
「生まれた時から、どうしたって愛されて愛されて仕方ないの。なーんでか、みんな私を好きになる。」
「私の部屋はねえ、いっぱいあんの、そこらじゅう。その日に行きたくなった部屋で寝んの。」
「面白いの。ねえどうして? 知ってる? 魚を見てるあなたの眼は素敵なのよ。でもねぇ、私は殺したって、人のものにはなんないの。」
「人のものにはなんないの」
ここでも「所有」は達せられないでいます。しかし、手に入らないがゆえに渇望する=崇拝するのです。
この「ナギサ」という女性は、しかしイデーではないのです。どこか…どこかで見たことがあるような気がします。現実を裁断して、散りばめたように、どこか遠くの日常で、ボクはこういう女性に出会った気がします。
「売るほどあるからなぁ。」「何が?」「……女が。」
ランボーもびっくりのセリフですね。

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ポストゆとり世代について
ボクは残念ながらゆとり世代の最初の方に位置しています。
というわけでこれからは下からも上からも「ゆとり」と叫号されちゃうのでしょうが、そもそも、この○○世代なんて名称は悲しいものばかりなのです。
あるいは
wikipediaを参考にしましたが、マイナスイメージになってしまったものが多いですね。「団塊」(笑) 「失われた世代」(笑) 「ゆとり世代」(笑)
しかし、どの世代もだいたい15年たてば次の世代に変わっているのです。ゆとり世代は1987年からなのでこの呼称もそろそろ時代遅れなものになってきているといえるでしょう。そこでボクが次の世代の名称を勝手に考えました!!
ボクはバイトの性質上、小学生から高校生までを相手に「おしゃべり」をしなくてはならないのですが、現在小学6年生の子どもと「おしゃべり」していたらですね……
「つーか、昔のドラえもんの声、キモくね?あれはないっしょー!!」
という衝撃的発言を聞いてしまったのです。いいですか、このブログを見ている人にとっては、「昔のドラえもんの声」=正義だったはずです。そうした神話が崩れ去っていきませんか?たしかに昔のドラえもんの声は変わっていました。それでもぼくたちにとっては、それこそがオリジナルなのです。ボクは20歳そこそこではじめて、実体験としてのジェネレーションギャップを感じました。
はい、というわけで、ゆとり世代の次なる呼称は「わさび世代」です!!
水田わさびは2005年からドラえもんを演じているので、2005年生まれ以上か、あるいは物心ついた時にはわさびえもんだった2000年生まれ以上とするのが適切かと思われます。