小路啓之の作品とキッチュ

小路啓之はおもしろいんだよ!!

小路啓之の作品*1は地方の書店にいくとまず置かれていないが、大きな書店や漫画コーナーが充実した書店だと細々と置かれていることが多い。さらに最近はポップまで作られているのを時たま目にすることができた。そのポップに書いてある文言がほとんど同じだったのが非常に興味深い。すなわち「おもしろい人にはおもしろい!奇妙奇天烈小路ワールド!」のような感じだ。おもしろい人にはおもしろいという件が気になったのでこの記事を書くことにした。

小さな世界 (バーズコミックススペシャル)

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小路啓之の作品とキッチュ

小路啓之のおもしろさは端的にいえば「キッチュを自覚的に作品内に包摂することで発生するアイロニカルさ」だ。

まずはキッチュについての説明

キッチュとはここでは「俗悪なもの」の意味で使用する。この語の詳しい説明はミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』*2からの抜粋に依拠することにしよう。

ヨーロッパのすべての信仰の背後には、宗教的であれ、政治的であれ、創世記の第一章があり、世界は正しく創造され、存在は善であり、従って増えるのは正しいという考えが出てくる。われわれはこの基本的な信仰を存在との絶対的同意と呼ぼう。(中略)以上のことから、存在との絶対的同意の美的な理想は、糞が否定され、すべての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界ということになる。この美的な理想をキッチュ/俗悪なるもの(Kitsch)という。*3

ここでクンデラ共産主義社会のメーデーの祝典こそ、共産主義キッチュであると断言し、するどい共産主義社会への観察眼を見せつける。続けて彼はさらにキッチュについて言及しているので引用してみよう。

キッチュ/俗悪なものが呼びおこす感情は、もちろんそれを非常に多数の人が分け合えるようなものでなければならない。従ってキッチュは滅多にない状況に基づいてはならず、人びとが記憶に刻み込んだ基本的な姿に基づいていなければならない。
(中略)キッチュは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ!
第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう。
この第二の涙こそ、キッチュキッチュたらしめるのである。*4

小路啓之の作品分析

さて、彼の作品の物語は一貫して次のような流れを形成していると思う。つまり<奇妙奇天烈ワールド→盛り上がり→終結>だが、ここではこの流れを、彼独特の「終結」の特徴から<フォルテ・ピアノ型>と呼びたい。*5<フォルテ・ピアノ型>は物語中盤において盛り上がっていた展開を最後の最後で、まるで肩すかしのように落ち着けて終わらせるやり方だ。代表例は短編集収録の『小さな世界』『カゲ切り男をめぐる冒険』だろう。このタイプは、彼の多くの作品(特に短編)に使用されているが、そのあまりの盛り上げ方にある種のキッチュさを感じさせる。たとえば『小さな世界』の終盤に主人公が発するセリフ「僕はここにいてはいけないのですか!」などはジャンプ顔負けのキッチュさである。それに対して最後のコマで先のセリフを言われた相手が「別にいいんじゃない」と答える様はまさに「肩透かし」だ。


そしてここにこそ、彼の作品のおもしろさがある。キッチュすぎる盛り上がりを最後で落とす。これは自身がキッチュであることを自覚しなければできない芸当であろう。なぜなら完全なるキッチュはその最後まで徹頭徹尾キッチュであらねばならないからだ。小路はキッチュ自覚的に作品内に内包することによってキッチュでありキッチュでないという状態を作り上げると同時に、それまでのキッチュ的物語を容認させる効果をも持たせているのだ。

小路啓之的な「救い」

さらにこの小路の最後の「肩透かし」はある種の「救い」へと開かれている。彼は最後の最後でキッチュから抜け出すことに成功し、非キッチュ的な俯瞰的視点を手に入れる。そこでは今までのキッチュですら「笑い飛ばす」ことができるだろう。(俺は中学時代にずいぶん痛いことをやってきたなぁ、と未来のある時点から過去を見つめる行為に等しい)この「笑い飛ばす」ということは、それまで作中で破天荒ながらも現代的諸問題に直面してきたキャラクターと、その問題を自分と重ね合わせていった(作中人物と擬似同期した)病める読者たちにとっての「救い」であるといえる。作中で小路は、明確な問題解決を行うことは少ない。しかし、この「肩透かし的終結」において彼は、「救い」を提示していたのである。それは自己を客観的、俯瞰的に見つめ、その上で自己を笑い飛ばせるようになる、ということだ。

小路啓之の作品と問題点

彼の作品内の世界は無国籍的で時代設定もちくはぐであり、世界観も物語ごとに変化する。登場人物の性格付けも基本的には支離滅裂、とんでもない設定がされているが彼らの真の性格は、小路が得意とする緻密な人間観察によって支えられており、非常に現代的な問題を内包しているといえる。一見すると、でたらめな世界とキャラクターが訳のわからないプロットを突き進んでいくどうしようもないマンガにみえるが、そういった表層を支えているのは作者の冷静な人間観察と現代的な問題意識である。現代的な問題とは、孤独、世界の不条理、人間存在の不安などである。ところが小路のこの二面性、つまり表層のでたらめと隠れた緻密さが、あまり上手く交わることができていないことに「おもしろい人にはおもしろい」という現在の小路の評価の限界が見えてくるのではないか。

たとえば小路の作品中のセリフについて考えてみよう。

前述したように小路ワールドはカオス寸前状態を呈しているわけだが、それを裏から支える緻密さは主にセリフによってあらわされる。ここでは彼の連載中の作品『来世であいましょう』からセリフの抜粋をおこないたい。*6

「お決まりの派遣輪切り浮遊霊コース/こんなハズレ人生さっさと終わらせればいいのに」「この人だってこの先楽しい人生が待っているかもじゃん」「見たらわかるでしょ?人生ゲームで言うところの「挫折の地」行き レコード盤で言うところのB面よ B面人生よ もちろんA面はワタシ!!」

「何ですか 「純愛」って?」「白血病や癌になったり強姦されたり流産して/最後に相方が死んで世界の真ん中あたりで叫ぶんだよ」

小学校の先生やオフクロさんが「やれ、あんたはシャアシャアとうるさいねぇ。口から生まれてきたのかい」などと言いそうな軽妙でリズムのいいセリフの連続はまさに小路ワールドだ。しかしこれだけだはない。小路の魅力は以下の内語に見られる鋭い人間観察にもある。*7

時間差攻撃型衝動行動/その場で怒りを爆発させる事ができずに時間を置いて怒りの妄想が限界に達した時キレる/さっきみたいに3年前の事に対してキレるから周りからは意味不明に暴れる奴だと思われる/すぐキレる子になりたいな


ところがこの2種類のセリフが混然一体となっているから、もしかしたら読みづらい、場合によっては嫌いになってしまう読者がいるのかもしれない。普段はただのコメディー的な要素、言葉遊びやいわゆる「黒板ネタ」として作品内で使用されていたセリフが、突然「高尚」なものへと変化してしまう「落差」にとまどいを感じるのか。

それでも小路啓之はおもしろい

とはいうものの、この問題点こそが、彼の作品の最大の特徴であり、慣れてしまえば心地よい。
キッチュキッチュとして描くと同時にキッチュならざる穿った視点で世界をみつめ、俗悪なるものと世界の本質を同平面上に構築していく…。彼こそ最も期待できるマンガ家の一人だ。

*1:ちなみにこんな記事書いておきながら僕は『イハーブの生活』はまだ未読で、その点は本当に申し訳ない…。

*2:集英社文庫 この小説、名前だけは有名だがはたして日本での評価はどうなのだろうか。非常に繊細かつアカデミックな文体で僕は好きだが一般受けしたのだろうか。

*3:ibid.,p314−315

*4:ibid.,p317−318 この後、あらゆる政治はキッチュと分かちがたく結びついているという論に発展していく。

*5:もともとは音楽用語で、その音をフォルテ(強く)で演奏してすぐにピアノ(弱く)へと変えることを意味する。我ながらひどいネーミングセンスである。なお、彼の代表作『かげふみさん』はこの型には含まれないが、これは別の記事で書く

*6:月刊コミックバーズ5月号および6月号

*7:人間観察が鋭くて、僕などは「なんで知ってるんだよ」と叫びたくなる。