ふられ方の極意

僕は時計の針を見た。こんなに遅い時間だとは思わなかった。重い砂袋のような時間は僕の両肩にのしかかり、僕をますます疲労させた。時間が重いと歩くのにも苦労する。やっとのことでリビングに入り、僕はどっかりとソファーに座った。心臓が弱弱しく鼓動し、何も聞こえないはずなのに、耳はしっかりと何かに聞き耳をたてていた。ひどく混乱していたから、赤ワインを一口飲んで落ち着こうとしたが無駄だった。早く横になって貝のように眠りたかったが、今日の出来事をもう一度反芻しなおして、自分なりに物語を作らなければいけないという一種の使命感を押し殺すことはできなかった。


 たしかに彼女は言ったのだ。
「別れましょう。お互いのために」
 いつかこう言われるという予感はあった。それは付き合いはじめた当初から感じていた予感である。予感はなによりも優越する。
「君がそういうなら、そうしよう」
「でも、理由をきかせてほしい。僕は僕なりに君のことを考えていたんだよ。それがいたらなかったのかい」
 今になって顧みれば、この問いはくだらないものだったし、低俗であった。しかしその時の僕に他に何が言えただろうか。人は常に予感を感じながら生きている。それを自覚するかしないかは問題ではない。未来への予感は僕らを温かく包む。たとえそれが悲劇的であっても。だから、別れましょうという言葉を「今日」言われると予感できなかった僕は、138小節休まなければならない金管楽器奏者が突如として曲がいま何小節目を進行しているかを見失った、あの絶望を感じながら、なんとか自分の現在地を把握しようとあがき、もがくのと同じように、焦り、苦しんでいた。
「いいえ、あなたは私のことをよく考えてくれていたわ。優しいしね。あなたと話していてとっても楽しかった。いろいろな思い出ができた、すごく素敵なね」
 この独白は彼女を美の極致へと導いた。僕にはそう感じるしかなかった。僕は震え、涙がでそうになった。過去形の悲しさが彼女自身にナルシスの力を与え、その美しさに磨きをかけたのだ。
「私の一番の思い出は、あなたと公園で語ったことよ。おもしろいでしょ、だってあなたと金沢に旅行にも行ったり、演奏会にも行ったのに、一番は公園でのデートだなんて」
 彼女の髪はどこまでも黒くて、自然に肩にかかっていた。いつも他人と少し視線をそらして右下をむく癖が彼女を少し幼くみせた。手首は細くか弱くてワイングラスの柄のように美しい曲線を描いていた。着ている地味な紺色のカーディガンには白い小さなボタンがついていて、彼女の美しい瞳とコントラストをなしているようだった。つまり全体が全体として美しかった。部分が乖離することなく、全体として美しい。それは若さという魔法を通してのみ可能なのかもしれない。
「君はいつもそうだった。日常の些細な幸せだけで生きていける才能をもっているんだ。うらやましいよ」そしてもう一度きいた。「どうして別れなくてはいけないんだろう」


 「あなたは、どうしてビル風が吹くのか、どうして春になると花が咲くのか、そういうことを私に教えてはくれなかったから」


これ以上悲しい別れの言葉があるだろうか。彼女は僕を嫌いだとか、愛していないとか、そういった言葉をけっして言わなかった。だが、この言葉はそれらのセリフより僕を悲しくさせる効果があった。なによりも未来への予感を一瞬で打ち壊す力があった。

 
 最後まで詩的であった彼女を想い、僕は部屋の中で一人ワインをちびちびと飲みながら、ふとテーブルの上をみると、そこには枯れたカーネーションの花と、グレープフルーツが置いてあった。(グレープフルーツのくだもの言葉は、なんだっけ)などと考えているうちに、眠気が向こうの川岸からゆっくりと近づいてきた。(そうだ、僕に必要なのは眠ることだ。)こうして僕は深い穴へとおちていった。



(お題は「ビル風」です。こんなんでいいのかしら……いいよね?)