カラスの黒

「いやぁ、奇遇ですね。僕、その仕事昔やっていたんですよ。っていっても、あんまり他人にベラベラ言うなって御上から言われてるんですがね……少し長くなると思いますがよろしいですか?」
男はその子供のような瞳を我々に向け、手を頻繁に動かしてジェスチャーを交えながら語り始めた。その滑らかな語り口から、男がこの秘密を以前にも誰かに話したことがあるのは明らかであった。



僕が勤めていたのは、荒川の河口近くの工場、というかオフィスでした。かなり大きい建物の地下3階で作業をしていました。ここでいうのもアレですが、けっこう稼ぎは良かったんですよ仕事のわりには。一日中カラスにスプレーするだけでいいんですからね。そりゃもちろん最初は慣れないので大変でした。カラスってのは頭がよくて、前の奴がスプレーされてるのを見て興奮しちゃう。それでどうにか逃げだそうとする。あいつらの足には逃げれないように金属製のリングがしてあるんですが、これが全く役に立たなくて。僕も厚手の手袋してるんですが、よく穴あいちゃって上司に怒られててですね、ってその話はいいんですよ。それでそのカラスってのが素晴らしく白いんです。僕は行ったことないですがイタリアの大理石のようなんですよ。あの羽を見たら天使を思い出しますよ。知っていますかね、古代のエジプトとかメソポタミアには有翼日輪っていうシンボルがあってですね、その大きな翼を思い出しちゃいました。あ、僕は考古学専攻だったんですけど大学で。で、まぁその見事な純白の体にスプレーしていくんです。このスプレーがまた真っ黒も真っ黒。グランドピアノ並みの黒さで、僕も仕事始めたばっかりの時は、なんでこんなことするんだ、こんなに白いカラスをなんで黒くしないといけないんだ、なんて思ったものです。だってそうでしょ?わざわざ金使ってね。国民の税金なんですから。いや、もちろんこのスプレーはカラスにはなんの害も与えません。そうでなかったら今頃とっくにバレちゃいますから。公害引き起こしたりして。にしても、よくできてますよね。死ぬまで、いや死んでも色落ちすることがないなんてね。僕は文系なのでよくわからないのですが、きっと偉い科学者が作ったんでしょうよ。


男は机に置いてあったお茶を一口飲んだ。我々は質問をした。「なぜ、その仕事を辞めたのですか」


いやね、まぁ一言で単刀直入に包み隠さず言ってしまうと、ちょっと上司との間でトラブルがあって。いや、そんな大したことじゃないんです。ただ僕もずいぶん若かったからあの時は。ついつい、ね。あれは僕がその仕事を始めてからだいたい10か月が過ぎたころです。僕はその頃には仕事にも慣れていたし、たまには後輩にスプレーするコツとか教える立場になっていたんですがね、ある日トラックから降ろされたカラスの中に、真っ黒なヤツが一匹いたんですよ。最初はなにかのミスだと思ったんですよ、業者が運んでる間に、僕たちが既に塗ってしまったカラスが入り込んだんじゃないかってね。急いで研究員の方が降りてきて、隣の部屋に運ばれてしまって。小一時間たってからようやく出てきたんですが、元のまま真っ黒カラスのままで。こいつのことは見なかったことにするんだ、って忠告して出ていっちゃったんです。黒カラスを連れてね。


それから僕たち作業員の頭の中は、その黒カラスのことでいっぱいでした。だって僕たちが毎日こうして白いカラスを黒く色付けしてることに意味はあるのかって話になりますよね。もしかして、カラスは本当は色が黒いのに何かの理由で白く塗られて、その白く塗られたのをまた黒くするんだ、っていう同僚まででてきて。そいつは2か月後に精神病院に行っちゃいました。それっきりです。こういうことがあると、ますます噂が広がるんです。僕もそれを広めていた一人だったんですけどね。そうして4か月ほど経ったある日、上司に呼び出されてこう言われたんです。お前、カラスのことを同僚に言ってるだろ、例の黒カラスのことだよ。どういうことだってね。僕としては別に同僚に教えたっていいじゃないかって思ったんですけど、御上はダメだったみたいで。ま、それで居ずらくなっちゃって辞めちゃいました。


僕はあれ以来、カラスは本当は黒いんじゃないかって気がしますね……直観ですけど。ただ、何らかの事情で白くされて、それで誰かがまた黒くしている。あの精神病棟送りにされたあいつの考えが、今になってわかった気がするんですよね。


外は相変わらず十一月の低く重い空がひろがり、今日こそ雪が降るのではと予報されていた。そして我々はこの男の奇妙な話を聞いている。窓から見えるビルの上に一羽のカラスが舞い降りた。それは我々がよく知る、真っ黒な色をしていた。


(就職の面接の時に「君はお得意さんに『私はカラスは白いと思うんだが君はどう思う?』と聞かれたらどう答えるかな」という質問があったそうで。そのことを他人から隔絶された日々の生活の中で反芻して、そうして自然と出来上がった会話を文章化してみたもの)