百合について

ネットで拾ってきたものなので作者不明

百合が好きなのだけれど、何事もそこまで熱くならない性格のために普通の人よりは百合を読んでいるけれど「百合オタ」とまではいかない私が、ここ2週間くらいかけて巡った百合の先輩がたの「まとめ」を書いてみたい。(あわよくば「百合の現在」などと言いたいが私の力ではどうにも…)

百合を定義することは可能か

百合を定義することは非常に難しいように思う。一般的にいって百合というジャンルはレズビアンというジャンルと密接な関係性にあるし、両者を完全に分離して考えることはできないように思われる。それでもなおレズビアンから百合を独立して考えるとなると、どのような語りでもって定義づけが可能なのか。


私が百合と感じ始めたのはテレビ版エヴァンゲリオンが放送されていたころで、伊吹マヤに幼いながらも百合の萌芽を感じたものだが、決定的に百合世界に私を引きずり込んだのは『少女セクト』であった。


ネット百合世界の大御所的存在である中里一氏の書評にはこう書いてある。

完璧だ。これが百合である。
もしあなたがまだこれを読んでいないとしたら、きっとあなたは死につつあるのだろう。これはたとえ話ではない。実際に、人はそのように病み老いて死んでゆく。
2005年08月23日玄鉄絢『少女セクト』(コアマガジン)


これは私の予想だけど、98年に連載され始めた『マリア様がみてる』やそれ以前のセーラームーンなどで、なんとなく百合が好きだと自覚した人の中で、そのまま「なんとなく」で終わってしまう人とそうでない人の差異が形成されたのは、この『少女セクト』を読んだか読んでいないか、ということが深く関係しているのではないだろうか。
少女セクト』はジャンルとしては「百合」にカテゴライズされうるが、早くもここで問題が生じる。
百合における肉体関係の有無

果て無き分類 チャート/グラフ化

百合における肉体関係の有無……百合を全く知らない人や百合神聖視論者はたとえば『マリア様がみてる』の清純、清浄な雰囲気を百合に投影しているだろうから、たとえ『百合姫wildrose』が刊行されようとも肉体関係を百合に組み込むことにはかなり反対するのだろう。そこで百合という領域を広めに設定して、百合の中でも○○派とか××系のように分類する作業が必要になってくる。(この作業自体は統一的な百合なるものを形作るうえで非常に重要だが、その果てしない分化が最終的には一なる「百合」ヴィジョンを再構築するためにフィードバックされるかはわからない。)なお、私は百合好きで比較的雑食なほうなのだが、いかんせん百合と触れ合う絶対量が少ないため、助力できないのが歯がゆい。


[文化]百合「的」作品をちょっと分類してみた。id:makaronisanさん)
百合の定義などの話(id:catfistさん)
百合座標作成(id:Choir_Tempestさん)

makaronisanでは
「ガチンコレズビアン物」
「少女たちの恋愛感情」
「少女達の閉じられた空間の中で」
「ライクとラブの間なのネ。」
「百合的イメージを連想させる作品」
「友情と百合の境目で」
「女の子だらけワンダーランド」
「男性が女性化して百合になっているもの」

catfistさんでは
「アニメ:ストパンとかが好きな人。エロゲヲタもここ」
「漫画:志村貴子とかが好きな人。ラノベ読みもここ」
「小説:最もディープ。未知の世界」
マリみて:それ以外よく知らない人 」

Choir_Tempestでは「半陰陽系」「お姉様系」「少女系」「GL系」

以上のような分類になっていて、一番これからが期待されるのは3番目のChoir_Tempestさんで、グラフ/座標でもって百合の位相幾何的位置づけを明確にしていこうという野心的なプロジェクト。
将来的には『少女セクト』は百合座標(x:y)=(14:-8)だよなー。とか言えるようになるのかもしれない。

一応自分なりにも考えた、「百合」とは

絶対に外さない「百合」の定義はロラン・バルト風に…

百合を構成するうえで必要不可欠なもの、それは「百合的なもの」である。「百合的なもの」なくして百合は成立しえない。「百合的なもの」は世界のあらゆるところに見いだせる。絵画、音楽、人々の雑踏……我々は「百合的なもの」を見い出さなければならない。


まぁそれはいいとして、私が考える百合は、完全にフィクションである、つまり、現実世界には「百合」は存在しない、と主張する百合=虚構説を唱えていきたいのだ。


百合とは、自己のジェンダーあるいはセクシュアリティーを明確に自覚することなしに、あるいは自覚することを拒否した女性同士の友情以上の関係性である、とここでは定義したい。


<恋愛>という行為は自分のジェンダーとかセクシュアリティーが少なくとも今現在はこうである、という意識なくして存立しえない。幼稚園児の男女が仲良くしていても、それは<恋愛>とは呼べないのだ。私は(多分)男と呼称されるジェンダーを生き、そして(多分)女と呼ばれるセクシュアリティーに性的指向のベクトルが向いているといった意識が必要である。
このことは異性愛者にとっては無意識下で行われるかもしれないが、同性愛者にとっては意識せざるをえないのが現状だろう。(私は女だが女が好きだ…)という自覚は現実で予想される様々な障害や落差に対して、どう立ち向かっていくのかを考えさせ、ある者はレッテルの恐怖から相手に自分の心を打ち明けることができないでいるかもしれない。*1


一方でファンタジーである百合では、媒体を問わず、こうした現実的な面というものが強調されることは少ないように思われる。

個人的な「百合≒レズ」の線引きのひとつとして、「女だからあの娘を好きになった」はレズで「あの娘だから好きになった。女だから、男だからは関係ない。たまたま女だった」は百合だという持論があります。
(真・業魔殿書庫さん/2007-09-18

「たまたま女だった」という意識。これは現実的ではない。にもかかわらず多くの作品で、百合は「普通」のこととして受け止められている。『少女セクト』でも志村貴子『どうにかなる日々2巻』でも女が女を愛することに登場人物たちはほとんどためらいがない。もちろん異論もあるだろう。たしかに数は圧倒的に少なくなるが、女だから、という理由で断るケースも存在する。しかしその時の拒否の姿勢や社会的影響(あるいは制裁)は現実とは乖離しているのではないだろうか。


志村貴子の『青い花』でも「女が女を愛する」ことがそれほど抵抗なく受け入れられる。「正常」な性/ジェンダー埒外にあるという点では『放浪息子』を参照するのもあながち場違いではないかもしれないが、『放浪息子』では『青い花』とは決定的に違う点がある。それは「攻撃性」とでもいおうか…。明らかに「正常」な社会から逸脱した二鳥くんの女装デビューに対するあからさまな批判、制裁、そして彼自身の内省。詳しくは『放浪息子』9巻を読んで欲しいのだが、とにかく百合=ファンタジーでは、ここまでの「攻撃性」を内包することは珍しい。(というか私は知らない。)

BLでも百合と同じことが言えそうだ。ホモソーシャルの中において男が男に告白することは今なお大変リスキーであるが、彼らはそういったレベルを超越して愛し合う。

これからの百合 イデオロギーについて

とりあえず、百合の現在らしいものと私個人のまとまりのない百合定義を終えて、今後の百合カルチャーについても少し触れたい。
先ほども挙げたChoir_Tempestさんの百合党結成というプロジェクトは興味深い。Choir_Tempestさんや一番最初に名前を挙げた中里一さんのように百合的イデオロギーをつくっていこうという流れは個人的に応援したい。


それで、まぁ一応私も百合好きなので一言いいたいのだけれど……。
つまり、「百合好き男子の名前」ってやつだ。私は男なのだけれど、百合が好きな男の名称は未だに確定してないようである。そもそも百合という高貴な花の名前を冠しているものが好きなのだから、美しい名前でなくては台無しである。
腐男子というのはもってのほかである。だいたい、これはBLが好きな男のためのものだったのだが、百合好き男子の名称が確定しないために暫定的に、あるいは誤用によって百合好き男子にも使われるようになったらしい。(参考腐男子


だから、今日ここで私が発表したい名称がこちら!
百男子ももだんし


これは一目で「あ、百合好きなんだな」と思われるし、響きもやんごとない感じがすると思うので、この記事を読んだ百男子の方々は是非、普及に努めてください(笑)

*1:私個人としては、同性愛者への偏見や差別は絶対に許してはならないと思っている。百合やBL文化がさらに浸透すればいつの日かそうした差別が消えることもあるのだろうか?