現状を突き破れるのか

ali-grigie2009-11-23

この「独言・仮構」では、その名前の通り独り言や取るに足らないこと、まとまりのない妄想などを書き連ねるという、まさにネットのゴミクズであり、世界中に発信する意義などどう考えてもないという点でこのブログの趣旨に反するのかもしれないけれど、誰も見てないことですし、はてなには毎月180円支払ってるわけで、このくらいのことは多めに見て欲しいな、などと誰に対するともない言い訳、前置きを書いたところで本題。

先に進めない症候群

最近、なにをしようにも戸惑いを感じざるをえないのです。漠然とした不安、特に就職に関する不安を常に抱き続けてはいるのですが、それが増大して、結果としてスーパーエゴが人事部の面接官へと変貌を遂げたことが原因かと思います(笑)


たとえばですよ、浅田彰でも読もうかな、あるいは斎藤環でもいいな、と思い立ったとしましょう。そうすると面接官として君臨する我がスーパーエゴが圧迫してくるのです。
「君は学生時代にサークルもせずに読書をしていたのだね」
「『構造と力』を読了したと書いてあるが、これは弊社の業務にどのようなプラスをもたらしてくれるのかな」
「文学部で西洋史を専攻……主にフランス絶対王政時代の権力構造および権力のイメージが民衆にどのような形で受容、発展していったのかを研究……。……(無言)」


これでは前に進むことなど出来ません。まさに言葉通りのスキゾ・キッド!
だいたい高校時代の先輩などから「大学時代はとにかく遊べ」などと訓導されますが、とんでもない。僕は勉強するために大学に入った人間で、遊ぶより読書していたい派なのです(そもそもここが間違いなのですが!)。ところが世間では遊んだ人間のほうが上手に世渡りするし、またそのきっかけを作らせてもらえる(つまり就職できる)わけで、僕のような青カビ猫背人間はチャンスすら与えられないのですよね。でもしかし、ホイジンガホモ・ルーデンスの発想からすれば企業側もあながち間違えではないわけで、むしろ遊び人のほうが真人間になりますし、「ホモ〜」論でいうなら僕はいっそホモ・デメンスを目指そうかな、とか(笑)

宙づり症候群

現代人は世界と(あるいはモノとヒトと)「依存」によってしか関係を築けないのではないか、というのが今年のテーゼなのですが、東浩紀のいう動物化された、つまりデータベース消費を無我夢中でするオタクには成りきれない、ということは「萌え」に対して依存関係を結べない僕にとって、いったい何に依存していいのかがわからないのです。
というか、際限なき相対主義の結果、主体すら液状化して「地に足つかない」状態が深刻になってきたわけで、僕も早く依存=パラノイア先を見つけたいのですが、どうも上手くいかない。友人は「もう継続的に何かを為し得ない、すべては虚しい」などとうそぶいて、恋愛ばかりしている者もいますし、あるいは、完全にニヒリズムに陥って就職を放棄して、自暴自棄に(就職も自分も放棄しちゃった)なっていたりと散々なんですね。
僕としてはニヒリズムには陥らずに、できれば手っ取り早く依存先を見つけたいのですが、このままだと自暴自棄ルート=バッドエンドへと流れていきそうです。フランス絶対王政なんて調べてなにするつもりなんでしょうね。


薬物依存ですかね。
昔は、死刑賛成論者でしたし、薬物依存は人非人などと思っていましたが、最近の切迫した状況では薬物依存も可能性としてはあるのかな、などと。「萌え」が「ヤクブツ」に置き換わっただけのような気がしますしね。
死刑に関しても、オウムやら秋葉原通り魔やらを見てると、奴らの行動の背後にある心理状態っていうのにシンパシーを感じてしまうのですね。もちろんアホなんですよ、やってることも思ってることも。でも、世界を、あるいは歴史をぶっ壊したいっていう衝動は何かわかる気がするな。もちろん単純な同情からは何の効力もない批評しか生成されえないけれど。

gdgdな世界を生き続けるのが苦痛でしょうがない症候群

世界には、意味もなければ不条理もない!
終末論もことごとく裏切られ(でも2012年なら、マヤ文明ならなんとかしてくれる!)、未来のない大学生活を送り(フランス絶対王政なんて…浅田彰なんて…)、それでも生き続けなければならないとしたら、どうすればいいのでしょう。どうすればいいのでしょうね。

まとめ

恋愛というのは、している最中は「これは有史以来のすべての人間が、未だかつて経験したことのない感情だ。これが愛だ!」などと信じつつ、と同時に腐った音楽の歌詞に、カビの生えた文章に、自分の感情の一部を感じ取り、それはそれで満足するものですが、ある日突然に自分の愛なるものも、実は有象無象の輩と同じ「愛」であったことを悟ります。その時が恋愛のターミナルだと思うのですけれど。
まぁそれはともかく(まとめになっていない!)上で述べたことを世界でたった一人、僕しか感じてないこと、考えてないことなんだ、なんて全く思ってないわけで、むしろこのように思ってしまうこと自体に僕の悲劇性があるのではないか、と思いつつ今日はこのへんで。次回は紺野キタにおける少女、あるいは、「プレ・百合」についてです。