小路啓之が新聞に

http://book.asahi.com/comic/
といってもウェブ版にはまだ載っていないのだが。
日曜日の朝日新聞の書評コーナーの隅っこにマンガレビューのコーナーがあり、そこになんと小路啓之の最新作『来世であいましょう』が、あのササキバラ・ゴウの手によってレビューされていた!



小路啓之は絶対にメジャーになれない、と友達に宣告されたが、これには小路ファンの僕も肯いた。
小路の作中人物は全員ゆがんでいて、真人間など一人もでてこない。『かげふみさん』もそうだったが特に最近は自意識過剰な主人公が描かれる。彼らは破天荒な設定と性格付けでチャカされているのだけれど、読み手の僕等に時々、強烈な一撃を加えてくるのだ。いや、一撃をくらったと思えなければ小路の作品は全くおもしろくなくなってしまうだろう。


他者との関係性。とどのつまり、これをこじらせた登場人物が活躍するのが小路作品の特徴だと思う。
笑いと勢いを媒介にして、ドタバタ劇のように疾走していくのだけれども、僕等は作中人物をただ笑って見過ごせることが果たしてできるのだろうか。かげふみに、あるいはナウに少しでもシンパシーを抱ける人、そうした人が小路作品をおもしろいと感じることができるし、そういった人は明らかに社会の中で(たとえ数字の上ではマジョリティーでも)マイノリティーなのだろうと思った。小路作品にリアルを感じちゃうなんて、なんか悔しいぞ!


いつか書きたいのだけれど、たとえば『来世で〜』の71ページ目(第3話途中)の下段の牧野キノのアップなど、急に今までの勢いが止まって、結果として剥き出しの世界が露出していると感じるのだけれど。
「なんだ 嘘が下手なコ だな」


あるいは『かげふみさん』3巻の三瓶が死ぬ前の、めぐみのにも同じ感じを抱くのだ。物語の急停止。
「何でもない………」

どうでもいい話

最近、とある5回生の先輩とサシで呑んできたのですが、やっぱり人生経験、知識豊富でした。
その中でも映画論的方法による鬼頭莫宏考察がおもしろそうなので、次の記事にはそれを書きたいな、とか。
でも紺野キタにみる永遠の少女、少女論ってのも書きたいかな。
とかいって誰も見てないのに次の予定なんか書くナッツーね。バハハーイ!