人形について

ドール

ハンス・ベルメール天野可淡四谷シモンと続くドール作家たちですが、この3名が(芸術としての)球体間接人形の生みの親であり、最初にして最高のドールを創り出したと私は思います。
「ドールを愛する者には、形而上学的な考察が足りない輩が多い」という趣旨の言葉を言ったのはたしか澁澤龍彦だったと思いますが、私もそのような輩の一人で、初めてドールを見たのは押井守監督の『イノセンス』の劇中でしたが、それから今まで感情的、感覚的な言葉だけで、ドールと向き合ってきてしまいました。
見る者の心を奪うドールについて、簡単な考察をしたいと思います。


ドールの存在

ドールは死んでいませんが、生きてもいません。私たちはドールの前に立ちすくむしかありません。ドールを構成する様々な物質は、モノであり、ドールはモノの総体ですが、私たちはモノ以上のなにかをドールの内に見出すことでしょう。虚空を見つめる透明な眼球は、どこにも焦点が合わないゆえに総てを見通してさえいます。その開きかけた口からは、無言の呼びかけが聞こえてきます。

このように「Aであり、Aでない」という矛盾した存在―それこそがドールなのです。この矛盾した存在は美しさと同時に人を不安にさせるのです。パンドラの箱のように「見てはいけないのに見たい」と思わせる魔力。

この不安はフロイトが分類した「神経症的な不安」の一種「自由に浮動する一般的な不安感」に酷似しています。本人にとってもなにが怖いのかわからない、そういった不安です。中山元先生いわく「不安は、ハイデガーが主張するような死への恐怖から生まれるのではなく、『存在すること(イリヤ)の恐怖』から生まれるかもしれないのである。」*1
現前するドールという矛盾する存在の前で、人は空漠たる不安を感じるのかもしれません。

人はなぜドールを作るのか

存在に対する不安というのもあるでしょう。しかし、私はそれとは別の―もっと根源的で不安に満ちた―感情を、正確にいえば恐怖を感じます。
私はそれこそがドールの最大の魅力でもあると思うのですが、ドールにはの雰囲気が漂っているのではないでしょうか。人の姿似ながら無機質な体は死体を連想させ、可淡等のドールの見せ方は妖艶にして頽廃的であり、これもまた死を連想させるといっても過言ではないでしょう。また、無機質であるがゆえにドールは永遠に「生き続け」ることができます。無機質かつ永遠、換言すれば脱有機的、脱時間性の性質を有するために、死を感じるのです。

そもそも、なぜ人はドールを作るのでしょうか。私は、ドールが持つこの死のイメージと関連づけて考えたいのです。
フロイトは晩年になって新しい欲動のペアを考えました。それがエロスとタナトス、すなわち生の欲動と死の欲動です。欲動とは「以前の状態を再現しようと努力」*2するエネルギーです。

これまでは、人間の生が失われようとすると、生を保存するような欲動が作動すると指摘されてきたのだった。しかし生が成立したときにも、何か失われたものがないだろうか。そう、死が失われたのである。それならば生のうちには、失われた死を反復しようとする強迫も存在しているのではないだろうか、というのがフロイトの思考の道筋である。このようにフロイト死の欲動タナトス)を、生命をもつ有機的な存在である人間が、無機的な死の状態を反復しようとする強迫的な衝動として解釈しようとする。*3

このタナトスは、自己に向けられる場合、さまざまな精神的障害を発症させます。しかし、たいていの場合は自己防衛のため、自己の外側(外界)に対して破壊衝動が生じるのです。それは本当に何かを壊さなくても、遊戯や運動、賭博などを通じてで疑似的に発散させるようです。*4
さて、この「無機物な死の状態」に戻ろうとする*5タナトスですが、この「無機物な死の状態」こそ、まさしくドールであると考えます。つまり、ドールはタナトスの具現化したものなのです。

結論

私たちがドールに見入るのは、それが普段は抑え込まれている死の欲動を想起させるからであって、そこには欲動が満たされる充実感と、死のイメージがもたらす不安が同時に存在すると考えます。

*1:フロイト 人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス中山元訳 光文社古典新訳文書p297

*2:ibid.,p240

*3:ibid.,p311-312

*4:フロイトは戦争の原因についてタナトスが関与していると考えたのかもしれない。少なくとも第一次世界大戦の惨状がタナトス理論を生む契機となったようだ。

*5:生命は無機物から進化した